近所でドラマの撮影があった

昨日、家の近くで福山雅治が撮影しているとメールが来て、駅の方へ歩いて行くと人だかりがしていた。メールをくれた知人がさらにそれを教えてくれた人と、さらに通りかかった知り合いと3人で立っていた。横の路地で撮影しているらしく、通りの車も歩道を歩く人も数分間止められている。通行止めが終わると今度は「立ち止まらないでください」と歩かされる。横を見ようと思ったが、止まれないのでそのまま通り過ぎる。

スタッフかエキストラの俳優かたくさん人がいるのでどれが福山雅治か見つけられなかった。知人が「パーカーを着ていて、背が高いからすぐわかる」と教えてくれたが、誘導している女性に「もっと先の方まで進んでください」となんども促されて、見えなかった。

再び道路の反対側に渡って見るが、本人はもう建物の中に入っているようだった。しばらくすると、また撮影をするようで、再び車や歩行者がストップさせられる。立っているとカメラの邪魔になるというので、もっと先まで行ってくださいと言われ、コンビニの陰からまだ未練がましく覗いていた。

また通って良くなったので、歩道を通ろうとすると、何度も行き来しているおばさんたちだと目をつけられたらしく、「今度通ったら、2度と戻って来ないでください。このままずっとまっすぐ行って解散してください」と言われた。

通る瞬間パーカー姿の福山雅治がちらりと見えた、多分。

結局再び戻る勇気はなく、それぞれ仕事や買い物でみんなバラバラになり、私も駅前のスーパーで買い物して10分くらいして帰ってくると、どうやらその日の撮影はもう終わって片付けになっていたようだった。

そんなに邪魔にするのだったら、なぜわざわざ駅前の人通りの多いところで撮影するのだろう。普通の路地がそんなにいいセットになっているのかわからない。

 

知人は先週もまた別の近くの道で、撮影していて、亀梨君を見たという。数ヶ月前はやはり駅前あたりで松坂桃李君も見たそうで、なんだか流行っているみたいだ。

 

夜、夫が帰ってからおばさんの集団だからすっかり邪魔者扱いされたと話すと「おばさんだったら、ずんずん入って行って握手してください、って言えばよかったのに」って心は乙女なんだから。

安心してください 世界は脆くてすぐ壊れます

朝方、夢でおばあちゃんのデイサービスに行ったら、そこで、脛を黄色の50センチくらいの蛇に噛みつかれた。職員の人に、2時間くらいかけて、噛みついたの蛇を足から離してもらったが、蛇は足の皮膚を雑巾のように剥がしていた。その皮膚を折りたたんで膝の下にガムテープのようなもので止めてもらった。

一昨日は、誰かに襲われそうになり、叫ばなければ殺されると思って、叫ぼうとしたが、声が出ない。そこで意識は半分夢だと気がついてここで自分の意思の力で声を出そうとした。「う、う、うおー」と自分の声に自分で起きると同時に「うるさい!」と隣で寝ていた夫も起きていた。

 

布団は暖かくてぐっすり眠れるが、左の腕が痛くて寝返りを打てない。左を下にしようとするととても痛い。

 

デパートの喫茶室でケーキセットを食べながら、図書館で借りてきた『すべての戦争は自衛意識から始まる』という本を読む。どこか世界で街が廃墟になっているとしても、この場所は離れていて関係ない。ケーキを一口食べると誰でも幸せな気持ちになる。

何も気がつかないふりをして。

数字色々

数字が並ぶとなんとかく意味がありそうな気がしてしまう。もちろん同じ数字が並ぶのと、違う数字が並ぶのと全て確率は同じだろう。たとえ777でも259でも。

今日は2月22日。5年前にはニュージーランド地震があった。実は新聞を読むまで日にちは忘れていた。先日の2月16日のほうが、2016 216で意味ありげな数字だったがマイナス金利政策開始ぐらいだった。

 

自動車に乗っていると、他の車のナンバーが気になる。最近では並んだナンバーもお金で買えるので却って多くなったようだが、前に都内の3車線の広い道路を走っていた時に、隣の車のナンバーが555だと思ったら、その後ろの車も555で、更に奥の車線を走る車も555だった時があった。これは「555」の愛好会とかの仲間同士なのか、とも思ったが、先の信号でバラバラになってしまった。一台だけなら、最近多いねというだけだが、3台も一緒に見るのはかなり珍しいのではないだろうか。

だからと言って、それ以上には意味はなかったが。

 

舅は昔、夢で朝方、蜂の巣を見たといい、ちょうど来た娘に言って馬券を買ってこさせたそうだ。8番を3万円買ってこい、と。家から場外馬券場が目の前にあったのだ。義姉は取り敢えず行って、買い方を聞いて買って来たが、やはりためらいがあって1万円だけしか買わなかったと言っていた。

しかし、それが大当たりだったという。ちょうど有名なレースの日でもあったらしい。果たして何倍になったのか、後からあの時言う通りにしていればと、義姉は悔やんでいた。

しかし、蜂の巣を見たら8でそれが馬券って、普段買ったことのない人が思いつくことはないだろうが、時に偶然か予知なのか不思議なことは信じる人には起こるものらしい。

 

探した店は見つからない

昨日はお昼近くに三鷹に行った。その前に図書館でかりて読んでいた本で三鷹の駅前に玄米ご飯を食べさせてくれる食堂があるのを知って、ネットで見ると駅のすぐ前のようなので、寄ってから行こうと思った。しかし、駅に着いてみるとそれらしいお店は見つからず、その2、3日前に調べたお店の名前も覚えていないし、スマホで見た時に保存するなり、ブックマークするなりしなかったので、もう調べることもできなかった。

15分くらい駅の周りをウロウロと歩いてみたが、その読んだ本は2004年のものだったが、駅前の広い地域は今開発中で囲われていたり、そのほかのお店だってもう変わってしまっている可能性もあるので諦めて、ほかの路地で、魚を食べさせるイタリアンの看板を見つけたのでそこに入った。

日替わりのランチは京野菜と鮮魚のスパゲティとマグロの頬のステーキだった。マグロの頬のステーキの柔らかくてこれがマグロなのかと思うような食感と味でとても美味しかった。

用事が終わって立川に帰ると駅前のデパートでは金沢展をやっていた。途中の階で買うものがあったのだが、看板につられて催し物場に入って行った。そして売り場を3分の2ぐらい回ったところでバッタリと知り合いにあった。

そしてもっと驚いたのはその一瞬前にもう一人の別の知り合いもそこにいて2人が出会ったところだったのだ。

3人は子供が同級生の母親同士なので、今でも一年に一度くらい、お茶を飲んだりすることもあるが、一人は子供と買い物に来て、もう一人は仕事の休み時間でたまたまそこに来たのだった。

すぐに別れ別れになったが、催し会場の歩くルートがちょっと違ってもすれ違いで出会えなかっただろうに、こういう時、いつもこういうのはどれくらいの確率で出会えるものかと考えてしまう。数字だけだったら、宝くじより低そうなきがするが、宝くじよりはバッタリ出会うという機会は多い気がする。

 

でもスマホでお互いの位置情報なんかがわかるようになったら、それはそれで嫌だと思う。近づいてきたピッピっなんてお知らせされたら、偶然なんてなくなってしまうもの。

タイミング

今から7、8年前になる。その更に以前に白州正子さんの『西国巡礼』を読んで「那智瀧図」を一度見たいと思っていた私はちょうど時間ができたというだけで電車に乗って見に行ったことがある。根津美術館蔵と本に載っていたから行けば見られるのだろうと思っていたのだ。

電車に乗ってから行き方だけど携帯で調べて着いてみると、ちょうど「国宝那智瀧図と自然の造形」という展覧会の開催中で私はじっくりとその「那智瀧図」を見ることが出来た。そして帰るときに、美術館が何年か改装の為に休館していたことや、国宝は美術館の所蔵でも限られた時しか展示されないことを知った。

いつでも見られるものと思っていたのは、自分が知らなかっただけで、たまたま行って見られたというのはものすごく幸運だったと気がついた。

その後、美術館などに行く機会も増えてきたのだが、例えばある時、ふと、高校生の時のラジオ講座の本の最後のページのコラムに載っていた絵のことを思い出してネットで検索したら、ちょうど展覧会がやっていたりという偶然が2回ほどあった。

展覧会の開催期間は限られているし、その期間が過ぎるともう何年も見られないということもあるので、そのタイミングの良さは、何かに導かれたとしか思えない。

最近では展覧会の情報などは新聞やネットから先に見ていることが多くなった。

 

さて、先日ははてなのブログを読んでいて、気になった映画があったが、遠い場所の方だったので、自分の住んでいる場所から見に行かれるわけでもないと思っていた。それから次の日とその次の日と別の2人の方が、その映画についてブログで書いているのを読んだ時、ふとその映画をネットで検索してみた。

すると、自分の住んでいる隣の市で前日にその映画を上映していたことがわかった。

すごくショックだった。最初、あるいは2人目の人のブログを読んだ時点ですぐ調べておけば、間に合ったのに、ちょうど前の日は珍しく時間があったのに・・

その映画は特別なドキュメンタリーなので上映日時や場所も限られていて、次に見に行ける機会があるのかどうか、今の所わからない。

しかし、見られる、グッドタイミング以外にも見られなかったこのタイミングの意味についても考えている。それはただ見てしまって終わりにならないためのタイミングだったような気がしている。

思わず口にすると、必ず

うちの台所には荒神様をお祀りしてある。おばあちゃんの部屋には仏壇と神棚。毎日お線香をあげる。

ある時、台所で丁度ラップが無くなって、「ああラップが無い!」と言った日に、銀行へ行くとその頃は窓口で継続とかの手続きで景品をくれる最後の時代で「こんなものしかありませんが」とサランラップをもらった。

ある時、なんと米びつが空で「お米が無い!」と言ったら、1、2時間後、ピンポーンと宅急便がお米を持ってきた。たまたま親戚が送ってくれたのだった。

しかし、私がつい口から出た声を背後で聞いておられた方がいたような気配を感じて、恐れ多くてそれからは口に出しては言わないようにしようと決心したのだった。

 

それから10数年経ったが、先日のこと。

おばあちゃんの部屋に義妹がたまたま泊まって使った毛布がとても暖かかったので、歳末セールの時にデパートで買いたいと言った。私は、押入れには何枚かあるはずだから持って行って使えばと言ったのだが、見つからなかった。昔の毛布は厚くてとても温かいものが多く、香典返しなどでそういうものをいただくことが多かったので、何枚か仕舞ってあったのだ。しかし、最近は香典返しもギフトブックばかりになり、そういう本だと綿毛布やシルクなど軽いものがメインであまり見かけなくなったように思う。

和室の仏壇と神棚の横の押入れを前に、義妹が「うちにはこんなに暖かい毛布なくて、買おうと思って・・」と話していたのだったが、それから数日後。

宅急便で大きな荷物が届いた。昨年末に亡くなった親戚の香典返しだった。厚くて暖かそうな毛布が2枚届いた。うちの息子が一枚をもらった。その二日後に義母宛に香典返しが届いた。こちらも同じく暖かい毛布だった。義妹夫婦の分がちゃんと揃った。

「うちには毛布がないんです」って言ったのが聞こえてしまったよう。

 

別に意味もない偶然でも

昔、20年くらいも前になるか、デニーズで友人数人でお茶を飲んでいた時。私のところにコーヒーを持ってきた店員が私に向かってコーヒーをこぼして服にかけられてしまったことがある。

それから、数年経って、同じ店でやはり同じようにコーヒーを頼んでいて、ふとその時のことを思い出した。もちろん近くの店なのでママ友などの集まりで2、3ヶ月に1回位は行くのだが、そのたびに思い出すというわけでわない。それにそんなことが続くわけもなく、(何人かいるのによりによって私の服にだけかかるという状況が)普段は忘れているのにその日に限って思い出していた。そして運ばれてくるコーヒーを見ている時だった。

なぜかよりによってつまづいたように私に向かって再びコーヒーがひっくり返って洋服にかかったのである。もちろん店員さんは同じ人ではなく、その店でそういう失敗が特別多いなどということもないだろうが、なぜか思い出した時にスローモーションのようにコーヒーがひっくり返ったことに驚いた。

クリーニング代を弁償してくれたような記憶もあるが、まあ昔の記憶である。

 

そんな風に、例えば何年も普段は合わない同じ町に住んでいる人で、偶然道で出会うことがあるが、何年かに一度ぐらいだが、その日に限ってその人のことを思い出すと、すぐに向こうから来て出会う時がある。

 

こんなことを思い出したのは赤瀬川源平偶然日記「世の中は偶然に満ちている」という本を読んだからなのだが、この本も買ったのは昨年末だったのだが、数冊買ってそのあと年末に掃除した時に他の未読の本とともに棚に積まれて忘れていた。

今年になってから、別の本屋でこの本を見つけて本を手に取り少し読んだ時にも、自分がすでに買った本だということは忘れて、面白そうだと思ったがその時は買わずに棚に戻した。しかし買わなかった時の方が記憶に残っているのが不思議で、作者の名前とタイトルが記憶に残っていた。

そして、昨日、家で積まれてカバーのかかったままの本を手にしてこの本を見つけた。つまりこの本は本棚から3回も私を呼んでいたことになる。

 

道を歩いている時に目に入るものにしても、偶然その時に見たもの、偶然通った場所、人、全てあとから考えるとその偶然が次の出来事につながっていることがある。

大抵見逃してしまうけど、ちょっとノートに書き留めておくと、あとから繋がってくるのがわかる。それがどこへ繋がっていくのか、わかるのは30年くらいかかるのかもしれないが、そういう小さな偶然を私も気に留めたいと思う。