すれ違う偶然

今年も一週間過ぎてしまったが、トイレに置く小さいカレンダーが欲しくて、ロフトで買った。店を出るときにすれ違った男性の横顔がなぜか知っているような気がして、(もちろん知り合いではない)歩きながら、ふと考えた。

もし、彼が何十年ぶりかに会う人で、すれ違った後で気づいて振り向いても、もうこの雑踏の中では2度と会うことはやはりないだろうと。

街の中ですれ違う偶然というのはどれくらい起こるものなのかしら。しかし、確率的には天文学的なはずなのに、出会ってしまうというのが、お互いを引き寄せる見えない力があるのだろうか。ドラマでは嘘くさい偶然も現実には時に起こる。

そんなことを考えながら、伊勢丹を通り抜け、途中後ろから来たおじさんに、「駅はこちらですか?」と聞かれて、「そうです。このまままっすぐ行って突き当りです」

と答えて、私は駅ビルのエスカレーターを上っていった。

3階から4階へと上がる時に、数人後ろで2階から3階に上がってきた人の顔を何気なく見て、なんと先ほどロフトですれ違った人がいた。

思わず、振り向いて確認してしまったが、もちろん知っている人ではなかった。

それでもエスカレーターを上ってくる彼のバックには「あの日、あの時、あの場所で〜」と歌が流れていた。

あれから4年半

午前10時50分、JRのホーム、青空で十分明るいのだが、蛍光灯がずらりと点灯している。
電車に乗れば、やはり蛍光灯は全てついている。いっとき走っている最中に全部消してみた時は、暗くて本も読めない時が、あった。その後考えたのが、蛍光灯を一本おきに外してそれで十分な明るさだった。
それがいつの間にかまた全部はめられて、こうして明るい昼間から全部つけるようになったようだ。
暗くて不便だったことは覚えているけど、明るい中に電気を使いまくっていることは、無駄じゃないかと気づいた訳ではなかったのだろうか?
どうせ忘れるというか、気がついてさえいなかったのか。
駅ビルのトイレについている手を乾かすのに風を送る機械もあの時は、止められていて、紙になっていたが、今は紙はなくなり、また温風乾燥がほとんどどこでも復活している。
もう電気が足りない訳でないとわかったから節電する気もないようだ。
今月の電気代の請求書がポストに入っていた。去年の使用量との比較が印字されているのだが、3年間は毎年去年より10パーセント以上減っていますという表示だったのだが、今年は去年より微増している。
なのに、新しい電気の暖房器具に心は揺れている。

国際平和支援法により武器を使うようになる自衛隊

セミの声がミンミンゼミからツクツクボウシに変わって、虫たちの声と混ざりあって、いつの間にか交代していった。毎年同じように繰り返しているはずなのに、去年も聞いたのかと考えるがよく覚えていない。気に留めないでいると、そうやって季節と共に変化していることにすら、気がつかないまま過ごしているのかもしれない。

なんだかんだと、一ヶ月も過ぎてしまい、8月の終わりに気の早いヒガンバナが咲いていると思っていたら、もうそのお彼岸に入っている。

連休前にと無理やり通した法案の成立から数時間で防衛省が今後自衛隊に武器を使用して救援や防護の任務に当たることを検討しているというニュースがでていた。

もちろん、そんなことはもっと前から分かっていることだったのだ。

来年の夏までには忘れてしまうと思っているのではない。来年の夏までには出来て良かったと思うだろうと考えているのだ。それまでにすでに武力行使せざるを得ない戦争している他国軍と協力し合い、犠牲者が出て、すると国民は一層やられたらやりかえせと言うに決まっていると、彼らは考えているのだろう。

19日の0時を過ぎて、野党の議員が最後の演説をしている間に楽しそうに笑っている与党の議員達を見て、いったい何が楽しいのだろうと、彼らの頭の中はそういうことでも考えているのかと思わずにはいられなかった。

 

 

夏はどこへ

常に何かを考えていると、その考えに相反する声がある。

そういうのは頭の中で常にあるけれど、それが本当に声として聞こえたのは初めてだった。それにそれは唐突に私の名前を呼んだ。私の声で。

2回目の声は知らない声で、もうなんと言ったか忘れてしまったが。

テレビの声を聞いたのかと思ったが、自分の頭の中での声だった。

 

昨日の朝、歩道の上でカラスが鳩を捕まえて襲っていた。もがいていたが、カラスが重くて咥えて飛べずに置いたまま電線に飛び立った。もう鳩は動いていなかった。

 

昨日はどこにいましたか?

その場所に行った人

私たちの夫は仕事でした

働いている夫には仕事が優先なのです

 

昨日、親戚の弔問に行っていた。家で介護と入院と、倒れてから10年近くになる年月の重さを感じる。

帰り道、スーパーに寄ろうと思ったら、テレビで経営者がでて紹介されたので、それ以来都内からの買い物客で大盛況。駐車場待ちの車の最後尾を警備員が示す。

パンを買おうと思っていたが、諦める。

 

 

 

 

目と耳と

6月に白内障の手術の2泊3日の入院に泊りがけで付き添いをした。

白内障の手術が無事終わり、一ヶ月経過し、結果は良好とのことで、大学病院の役目は終わったとして、紹介状を書いていただいた病院に戻ってきた。

以前のように手探り状態からすると大分改善して、歩き方も危なくはなくなった。しかし、視力検査をしてみるとあまり見えてはいないようで心配していた。

再び診察して、こんどは緑内障と加齢性黄斑変性といわれた。そのために視力があまり回復していない。視力検査の文字盤の一番上の記号を紙に書いたものを目の前から1メートルくらいの距離までしかわからないという。

先生がぽつっと、「せっかく手術したのも無駄だったかもしれませんね」とつぶやいた。白内障で濁った目をきれいにしたからでないと、眼底の神経などがわからないからと、最初から言われてはいたのだが、やはりショックである。

また1ヶ月後に視界の検査をやることになった。その検査は1時間半くらいかかるという。ちゃんと受けられるか心配だと先生に伝えると、「その時はすぐ止めますから」という。

 

結局、小さい字を読んだりするのは難しいのかもしれないが、日常生活では改善したので良しとするべきなのかもしれない。

しかし、病院通い続くようだ。

 

さて、おばあちゃんの方は、10日くらい前から補聴器がみつからない。すでに片方はなくしている。まず、私と主人で部屋を探してもみつからず、義妹と義姉もそれぞれきて、部屋を掃除してくれたが、やはりみつからず、ついにまた作ることにした。

今までも何度もそういうことはあったが、ポケットのなかやら、棚の上やら、ゴミ箱のなかやら、床の上やらから見つかってはいたのだが。

作った近所の店で調べてもらうと、前回初めて作ったのは10年前であった。聴力自体はそれ程は悪くはなってはいないという。しかし、何かを話しかけても、まず聞こえない、わからない、という。あるいはわかったふりで、ふんふん、と返事はするが、理解していない。

耳の問題よりも、受け入れたくない事柄は理解しないことにしたようにも思える。あるいは理解しても3分で忘れてしまえるということか。同じ話しを何度も大声で説明しなくてはいけないので、せめて聞こえるようになってもらえればと思うのだ。

 

作って帰って来たら、こんどは目がうるさいと言っていたが、見ると急に目やにだらけになって赤くなってきたので、サルファ剤入りの目薬を買ってくる。移るからあまり触らないようにと言ってみたけど、最初は右目だったが、一枚のテッシュを何回も使うし、両目ともこするので左目も赤くなってきた。目薬も目にくっつけて両目にさしているので、やり方を伝えるのだけれど、いつも自分でやっているやり方に戻ってしまう。

次の日は目医者さんに行き、洗ってもらうとずいぶん赤みが退いた。塗り薬と目薬一本もらってきた。

次の日には目薬がなくなっていた。

 

 

一杯のコーヒーから

ニュースでは強行採決がテレビで取り上げられて以来、安倍内閣の支持率が下がったと言っている。どこのメディアでもそれぞれ世論調査をしてはここぞと発表している。

そして、白紙になった新国立競技場のニュースは熱心に取り上げるけれど、肝心の安保法制の内容とかはちっとも解説していない。だからこそ、ニュースを見ても肝心なことを言っていないという思いが強い。あの強行採決の日に国会中継をしなかったNHKがいくらニュースで支持率がさがったと言ってみても、なんだかしらじらしくてしょうがない。

それでも、そのニュースを見ている人の大半はあまりそんなことは気にしていないように思える。だから支持率がさがったほどに、国民の見方がそんなに変わったとも思えないのだ。

電車に乗ると半分以上の人がいまやスマホを手にして、画面を見ている。その多くの人が見ているものは一体なんだろうか。私の両隣の人は二人ともゲームだった。年齢はそんなに若い人ではない。

つい先日までスマホを敬遠していた年代の人もスマホを持つようになったが、友達に教えてもらうのはLINEとゲームアプリが多いかもしれない。知り合いにLINEやってると聞かれると、私はやっていないと答える。ついでにやる気もないと。だから今や私の周りの人もみんなスマホを持つようになったけれど、連絡は今だにメールのみだ。

電車の中で結構年配の男女でもゲームをやっているのを見ると、昔子供が幼稚園の頃にゲームボーイが流行って、友達の家に遊びに行ったのに、集まった子供たちがうち以外全員ゲームボーイを持っていて並んで遊んでいたのを思い出す。(一人一人が自分のゲームをしているだけ)

この前まで武蔵境にある喫茶店でブルーマウンテンの豆が欠品していて飲めなかったけど、昨日行ったら、飲めたと父が言った。喫茶店では豆の値段が上がって、小売する袋が小さくなっていた。

そんな話をすると、大抵の人はでもセブンイレブンのコーヒーのが美味しいよという。

では、なぜそんな美味しいコーヒーが安くてみんなが飲めるほど大量につくれるのか。そこのことを考えて欲しいのだけど、みんなは安くて美味しいことが大事なのだ。だから安倍さんを支持している人とそんなに変わらないと思う。

コーヒーの値段は作っている産地の人たちに関係なくニューヨークの相場で決まってしまい、実際の労働者には還元されていないものがほとんどで、労働環境も子供達も働いている現実がある。スターバックスセブンイレブンではいつでも美味しいコーヒーが飲める。それは当たり前のことなのか。

支持率の低下から始まるものは何なのか。何が終わるのか。

見えないものが見えてくる。

みんなが買わないと経済が悪くなるとあの人はいうでしょう

朝のNHKのニュースの時間に「ミニマリスト」特集を放送していた。ものを持たない暮らしを実行している若い人を取り上げていた。家具もないすっきりした部屋のフローリングの床に正座して木箱のような机の上に料理を乗せて、乗り切らないコップは床置きでの食事風景には色々な感想があったようだが、そこまで極端になれなくても、ものをすっきりさせたいと思うのはほとんどの日本人の思いではないか。

日曜日にテレビのドラマで「デスノート」が始まった。終わりのほうしか見なかったのだが、ツイッターであらましがわかるかと検索してみたら、ニトリのカーテンというのが出ていた。途中、立てこもり犯人が立てこもった部屋のカーテンがニトリのでかつ、それとおなじカーテンだという人がたくさんいて、テレビの後ろのカーテンとテレビの中の犯人の背後のカーテンとが写されてた写真が何枚も出ていたのだ。

その生地は大量生産されているのだろう、カーテンだけでなく、布団も一緒というのもあった。

駅ビルで最近FLYING TIGERがオープンした。名前は知っていたけど、行ったことはなかったので入ってみた。入り口から原色の鮮やかな色の雑貨が並んでいた。フロアーの一角なのでそれほど広くなく、商品の種類も限られているのだろうが、ノートがあまりにも安くて買ってしまった。

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小さいノートは5冊で100円だった。

持たない暮らしというブログがたくさんあることを知ったが、そういうブログをいくつか訪問したら、そういう暮らしの中で選ばれた物の紹介というのが結構あったのが興味深かった。